今日は、学祭最後の休みなので、地元で所用を済ませる。
早朝、母親を送っていき、
家に戻って仮眠した後は、お墓参りに行った。
その後、病院に行て、おクスリを入手し、
その足で美容院でカット&パーマ。
家に帰ってからは、課題を済ませ、今に至る。
うむ。なかなかに充実してるぞ。
ということで、今日はいい天気だった。
母方のおじいちゃんと、おばあちゃんの姉のお墓は、
市営墓地にある。
おじいちゃんは盆栽を愛し、僕などとは違って大変厳格な人だった。
なんでも作れる人で、亡くなった後、
発明途中の無限動力機が発見されたりした。
現役を退いてからも宇宙科学などに興味を持ち続け、
スペースシャトルの大気圏再突入の角度について、
小学生だった僕に、説明してくれたことを今でもよく覚えている。
おばあちゃんの姉というのは、
おばあちゃんと一緒に群馬から横須賀へ来たが、
戦争で旦那さんを亡くしてしまった。
晩年は、僕のいとこ一家とおばあちゃんの隣の家で暮らしていた。
僕ら孫たちにも優しくしてくれて、
つまり僕にはおばあちゃんが3人いることになる。
ほんとに働き者で、大正生まれの女の人だった。
お茶を一口もらい、お線香をあげ、タバコに火をつけ、そっと供える。
誤解を招くかもしれないけど、
お墓参りって自分のためにするのだと思う。
墓石の前に腰を下ろし、目を瞑って、手を合わせる。
とたんに時が止まる。
そこには、自分と、眠る人とだけが存在している。
亡くなった人に語りかけると、
今までの自分が見透かされるようで背筋が伸びる。
しかし、着飾っていたものを一枚一枚解かれていくのは、
心地よくもあり、申し訳なくもあり。
こうして、次に目を開けたときには、
新しい世界が開けていたりして。
感謝の気持ちと畏敬の念を持って、
「また来るね」って言えば、
小さな旅も終わり、また日常へ戻ってく。
凛とする。
1パケ300円のマリファナを肺に入れたり、
もうちょっとお金を出して、ドラッグを口から摂取すれば、
それらは血中に溶け込んで、脳へと侵入する。
そしたら、30分後にはリアルに「幸せ」を感じることができるのに。
でも、どうも現実で、「それ」を感じるのは難しいことのようで。
どれだけ汗を流そうが、涙を流そうが、
あるいは三半規管が眩暈を起こすだけかもしれない。
そして、何年たっても「幸せ」は掴めないかもしれない。
最近わかったことは、人は思ったよりも弱くて、思ったよりも強い。
時間は無常に流れてるけど、止まったまま流れてもくれない。
そんなことをうつらうつらと考えてたら、
3つも飲み会をサボるはめになった。。。関係者各位ごめんなさい。
そして、察してかどうかわからないけど、こんなときに限って、
タイミングよく届く手紙やらプレゼント。
どうしてこうも絶妙のタイミングで救いの手が届くのか。
こうした嬉しい誤算によって僕は生かされているのです。
なんとなくポストに投函してくれた方々、本当にありがとうございました。
何かを得るためには何かを犠牲にしなくては。
とは、よく口にされる言葉ですが。
何を捨て、何を掴んできたのか。
何も考えず生きてきたようにみえて、
でも、ふと考えてみれば、取捨選択の繰り返し。
くだらない。
本当に全部くだらないことです。
何を捨て、何を掴むかなんて、くだらない。
今日はぶっちゃけ何の日でもない。
ただ、何年か前の今日、『一般市民』と呼ばれる多くの人が殺された日です。
もちろん、そんなことは、いくつかの国と地域で今日も起こり続けてる。
当たり前の一日。
たまたま、『発言力』を持つ人たちの仲間が殺されてしまった悲しい日です。
宗教。神様。そういうのが違うから、だから隣人と殺しあう。というのがユーゴ紛争の解釈。
北部同盟のある指揮官の弟はタリバンの兵士だったって。共通の目的は、平穏に暮らす事。
遠く離れた国の『政治』が、遠く離れた国の人をミサイルで焼く。イラク戦争。
もちろん、これら以外にも、僕らが目をそらしている間にも、
あるいは知らないところで、人が人を殺してます。人が人に殺されてます。
こうしたときに、『発言力』がない人々は、力をもたない人々は、何をしたらいいのでしょう。
例えば、体に爆弾を巻きつけて、他の誰かを殺せばいいのかも。
自分の死と引き換えに。
誰かを殺したり、誰かが殺されたり。
それはきっと、
神様のためかもしれないし、自民族のためかもしれないし、お国のためかもしれないし、
家族のためかもしれないし、政治思想のためかもしれないし、お金のためかもしれない。
あるいは、理由なんてないかもしれない。
敵と呼ばれる人々を、理由も知らずに、憎んでいることもあるでしょう。
自民族どうしで、殺しあうのは悲しいこと。
隣人同士が、殺しあうのも悲しいこと。
『はじめにロゴスありき。』
ってこの間、僕は書きました。
『ロゴス』が『言葉』だったとして。
宗教が違う、文化が違う、国が違う、肌の色が違う、歴史が違う。
様々な違いがあるものの、人間には『言葉』という共通のツールがある。
ニモカカワラズ、武器をもち、火薬をばらまき、相手を殺し、殺される。
だからこそ、そうした行為が、悲しくて、滑稽で、卑劣な行為に映るのでしょう。
何年か前の今日、僕達の『仲間』である『一般市民』の多くが殺されてしまった。
今年の今日、あるいは昨日、
中東の知らない国で殺されたであろう『一般市民』も、きっと、もちろん僕らの『仲間』。
あの日、飛行機をハイジャックした人も、内戦がなければ、善良な『一般市民』だったはず。
今日、イラクで子供とかを撃っちゃったりしたアメリカ人も、故郷では、家族が待っている。
殺した人も僕らの『仲間』。人間です。
みんなが加害者になり、みんなが被害者になる。
おかしな時代になりました。

たまに思う。人間てつくづく面倒くさい。
『明日のことを思い煩うな。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。』
マタイによる福音書に書いてあるらしい。
クリスチャンではありません。ちょこっとずつ読んでる本に書いてありました。
引用後、著者はこう続けました。
『人間は、想像力という危険な賜物を神から授かっている。』
まさしくもって、この通り。だから人間は面倒くさい。
まあ想像力とかがあるから、人間はここまで繁殖して地球を支配できたんだろうけど、
そいつのおかげで、抑制されたり、悩みが増えてるのも事実。
てか、むしろ、想像と苦悩は表裏一体。
想像するから悩むのであり、想像できなきゃ悩まない。
て、別に何かに悩んでるわけでもないし、これといった問題もないんだけどね。
こんなに暇を与えられたのは、たぶん、ここ数年なかったことだ。
落ちようと思えばどこまででも沈めるし、
上がろうと思えばどこまでも高く行ける。
自由な時間があるって、とってもプレッシャー。
自由って本当に怖いものです。
あ、ちなみ、写真は最近購入したラヴリーでじかめ。
オプションその他で13万円なり。
かなりのお気に入り。あとは三脚だ。
自分のために。誰かのために。
何か行動を起こす時には理由が要る。
それは、自分のためなのか。それは、人のためなのか。
人のためと言いつつも、多くの場合はめぐりめぐって自分のためだったりする。
自分のためにできないのなら、人のためにすればいい。
そういう理由をつければいい。
そういう他人の利用の仕方もありかもしれない。
そうやって自分を納得させることも、あるいは許されることかもしれない。
見守っててくれる人がいる。
僕の帰りを待っててくれる人がいる。
心配してくれる人がいる。
次に会うのを楽しみにしてくれる人がいる。
その人たちのために、旅に出るのも、ありかもしれない。
『はじめにロゴスありき。』
ってなことを昔の人が言ったらしい。
解釈は「ヒカリ」でも「コトバ」でも、ぶっちゃけどっちでもいい。
はじめに夢があるか、環境があるか。それが大事。
ちっちゃいころは、例えば宇宙飛行士になりたいとして。
中学生になったら、医者になりたかったとして。
高校生になったら、サラリーマンにはなりたくないと思って。
大学生になったら、一流の企業戦士になるべくして。
社会に出たら、役職を求める。
この方程式によれば、描ける夢の範囲は歳をおうごとに狭くなる。
最後には、容易に計算できる生涯年収で描ける夢を見る。
とは僕の持論ですが。
これは、つまりは、『はじめに環境ありき』ってことになる。
自分の置かれた状況を分析し、
「夢」なるものを、実現可能なものに下方修正する。
これができるから、人間がちゃんと社会を形成できてるんだと思う。
一方で、どうしても頑固な人たちもいる。
何歳になっても、自分の身の振り方も考えず夢を追っちゃえる人。
この人にとっては、環境だとか、周りの意見だとかは関係ない。
ひたすらに自分と対峙して、自分のなかに答えがある人。
こういう人は、ココロからしてかっこいい。
僕はといえば、絶対的に前者の軟体動物。
あれがダメなら、これがある。
と、高尚であるはずの「夢」を、すり替えすり替えやってきた。
後者の人には、遠く及ばず。
「はじめに夢ありき。」
あたりまえのことにして、なんと難しいことか。
僕の夢は世界一周でした。
よんどころなく悲しいことがあったとして。
でも、僕にはどうしようもないことだったりするので、
そんな僕にできる唯一のことといえば、
それは、目をそむけることです。
でも、忘れられるわけでもないので、
くっついたりはなれたりしながら、
適当な距離をおいて、
こういう悲しさとうまくつきあってくのです。

マージャンでさー。
僕は前にも言ったけど運のみだからね。
スジとか関係なくね、でもテンパりたいしね。
フリ込んじゃうかなー。て思ってどきどきしながら、
でも出してみると、
通る時もあれば、ほんとにフリ込んじゃう時もあったりして。
バイクとか車とかの運転もさ。
どんなに気をつけててもね。
やっぱり気を抜いちゃう瞬間もあるわけで。
そうすると後は運しだいなんだよね。
事故るときは事故るし、大丈夫な時は大丈夫。
自他共に認める安全運転至上主義者な僕が言うのだから間違いない。
例えば事故って自分が死んじゃったりさ、
あるいは、自分の過失で誰かを殺しちゃったりさ。
どっちも一瞬にして人生終わるでしょ。
どれだけ安全運転してても、
どれだけ無謀な運転してても、
もちろん確率はすんごく違うけど、
それでも事故るときは事故るし、
大丈夫な時は大丈夫。
その差ってなんなのだろう。
運なのかな?
運命なのかな?
てなことを考えたりします。